< 寄せられた感想文等 >

「みんなで歌おう懐かしき日本の歌」に寄せられた手紙による感想より




 インターネット資料より 島崎藤村「朝」の思い出   木村スミ子さん

(島崎藤村作詞 小田進吾作曲「朝」をオーケストラ伴奏で歌う頁へ→)


 十時になると私の住む町にミュージックサイレンで島崎藤村の「朝」の歌が流れてきます。 私がこの歌に出逢ったのは五十六年前、十三才の時で戦時一色の頃でした。「朝はふたたびここにあり、朝はわれらと共にあり、埋もれよ眠、行けよ夢、隠れよ、さらば小夜嵐−」で始まるこの歌は十二番までありますが、私が覚えているのは三番までで、そんなに長い詩とはその頃は知らずにいました。   熊本の田舎で高等小学校二年の早春、沈丁花の蕾がふくらみ始めていました。私はこの春、この歌を初めて聴き、又それを教えて下さった方との出逢いがそれからの自分の人生に少なからぬ影響を及ぼす事になりました。その人は陸軍中尉で少女の私には大変長身に見え、今にして思っても180センチ位はあったろうかと思います。飛行場建設のために小学校の校舎に駐屯して来た部隊の中隊長でした。昭和二十年、終戦はもうそこまで来ていたのに小国民の私たちには知る由もなく、出征兵士の家の勤労奉仕や学校で作る農園の唐芋や稲の草取りなどの作業に明け暮れていました。ただ、雨降りの日は教室で勉強をするので雨が降ると嬉しかった記憶があります。格別、勉強が好きだった訳でもないけれど、農村に住みながら家が農家でなかったため、友達のように農作業を手際よくでやれなかったことが時に苦痛でさえあったからです。  
  ある雨の日、兵隊さん達も作業できなかったのでしょう、その中隊長さんが私たちの教室に見えて話をして下さいました。最初に、黒板に「永井義一」と書き「これを読んで下さい。」と言い教室の皆を見回しました。「ながいよしいち」「ながいぎいち」などと答えが出されましたが、戦争たけなわで小学校四年頃から勉強らしきことをしていない当時では、読めないことは仕方のないことだったと思います。内気な性格だった私でしたが何となく手を上げ「ながいよしかず」と言いました。それがその中尉さんの名前だったのです。その後、私の名前を聞き、偶然妹さんと同じ名前だったこともあり、ちゃんづけで読んで下さるようになりました。文学青年だったこの中尉さんは、さらに島崎藤村の話をして下さったが私を含めて誰ひとりとして藤村のことを知るものはいませんでした。熊本の田舎の小さな小学校で、それも戦時中のこと、藤村の詩や小説は誰も教えてくれるはずのない時代でした。中尉さんはあきれたように「君たち、藤村も知らないのか。」と言って突然、それは美しい朗々とした声で歌って下さったのがこの「朝」の歌でした。私には衝撃的な出来事で中尉さんは三番まで歌われたが、私は瞠ってこの若い中尉さんを見つめていました。今で言うカルチャーショックというものでしょうか。こうして出逢った「朝」の歌は生涯忘れ得ぬ大好きな歌になりました。その永井中尉さんとの出逢いは、私の心の中にかつて持ったことのない、不思議な感情をもたらしました。ずっと後になって、あれは早すぎたかもしれないけれど、私の初めての幼い憧れのようなものだったのかもしれないと思いました。 永井中尉は折に触れて美しい声で数々の歌を歌って下さいました。「椰子の実」、「浜辺の歌」等。でも、何故か一番最初に教室で歌われたあの「朝」の歌の歌ほどの感動が私にはありませんでした。そして、中尉さんとのお別れの時が唐突にやってきました。唐突で はなかったのかもしれないけれど、私にはそう思えました。私の家の方に、下士官の方が二人毎日夕方入浴に来ていて母と姉に次の建設地に移るという話をされ、お礼を言われたと聞きました。その数日後、私は校舎の横の洗い場で作業を終えて手足を洗っていたとき、視線を感じて目を上げると中尉さんの長身が私を見下ろしていました。「お別れだね、すみちゃん。しっかり勉強して立派な人になるんだよ。」と中尉さんは言われた。私は黙って下を向いたままでした。そんなときに何と言っていいのか、言葉を知らない幼稚な私でした。何故「さようなら、ありがとうございました。お元気で。」と言えなかったのでしょう。洗い場の傍らに沈丁花が盛りを過ぎようとしていたけれど、まだ微かな香りを放っていました。島崎藤村を知り、詩や小説を読んでみたいと思うようになりましたが戦争がいよいよ容易ならぬ状況になっていくのが子供心にもおぼろげに感じられるようになっていました。ラジオから「海ゆかば」の曲がよく流れるようになって警戒警報のサイレンが時をおかず空襲警報に変わる日が多くなり、学校でも農 作業や勤労奉仕よりも防空壕に逃げ込むことの方が多くなっていきました。私の家は山の麓にあり街からも、飛行場からも離れていて爆撃の心配は少なかったけれども、熊本市が空襲を受けた夜は、空は真っ赤に染まり不気味な一夜を壕の中で過ごしました。 そして終戦、終戦の日、玉音放送を雑音の多いラジオで聴き、すぐには理解できなかったけれど、程なく敗戦と分かったとき、母はソロモンで戦死した兄の名を呼びながら慟哭していました。茫然自失の時が過ぎて学校内も一変して校長先生がみずから「今までの教育は間違っていました。今からは新しい勉強です。」と言われ、ローマ字などを教えられるようになりました。教科書のいたるところに墨で線が引かれて字が隠されていました。家では電灯が明るく灯り、戸惑いながら自由への道を歩み始めていました。田舎に住んでいたおかげで食べ物に不自由しなかったことはその頃としてはたいそう倖せな事でした。
  終戦からひと月ばかり経った頃、この春まで家に入浴に来られていた下士官の二人がたくさんの新しい毛布や蚊帳や当時の私たちには手に入らない食料品などをもって訪ねて来られた。残務整理を終え、部隊は解散しそれぞれ帰路に就く事になったとお別れを告げに来られたのでした。その折り、曹長さんから永井中隊長から頼まれたと私に文具と革製のとても子供の私には不似合いな筆箱を戴いた。「しっかり勉強するように。」と中隊長殿が言っておられた。と未だ軍隊の階級のままの敬語で話された。筆箱の中にはいろいろな種類の鉛筆や消しゴムが美しく並んでいました。なつかしい思い出でいっぱいになりました。  
  時が経ち、島崎藤村の詩集や小説を何冊も買って読みました。今でも耳に残っている「藤村も知らないのか。」の声にに導かれるように戦時中勤労歌として詩集に収められている「朝」の歌にたどり着きました。労働雑詠として十二番まで載っていてそれを手にした時、誰もいない部屋で私は大きな声で歌ってみました。溌剌としたこの歌が、その時は、何故かもの悲しく思われました。「立派な人になりなさい。」と言われた永井中尉の言葉はいつも私の心に生きていました。それ程立派な人になることはできなかったけれど、どんなに苦しいときでも自分の良心に恥じない生き方だけはできたように思います。毎年、墓参のために熊本に行きましたが、住んでいた家は今はもう無くなり、木々の茂る林になっていました。村もたいそう様変わりし、もう来ることもないだろうと思い出多き故郷に車の 中から別れを告げました。「朝」の歌を聞くたびに若い頃には溌剌とした気分になり、一日を頑張ろうと思ったものですが、年老いた現在では穏やかに朝を迎えられる事に感謝して聴いています。息子が言うにはインターネット上のホームページでは島崎藤村に関連するものが二十万件を越えるそうですが「朝」の歌が出されているのは少なかったそうです。その中には私と同様に「朝」の歌の思い出を記されている方もいらして、私と同年輩の人ではなかろうかと思ったりもします。あの戦時下で歌った歌の思い出を共有する方達もだんだん少なくなっていくのでしょう。そして、それが何故、私がいつも「朝」の歌を歌うのかを、すでに四十代の息子や娘に書き残したかった理由なのかもしれません。




もとに戻る